-群像- いわきの誉れ「昭和の流行歌手 霧島昇」

戦中、戦後に一世風靡 大久・久之浜への思い深く 

霧島昇=『決定版 いわきふるさと大百科』から

 松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』などが大ヒット、一世を風靡(ふうび)した、歌手・霧島昇(本名=坂本英吾)は、大正3(1914)年、現在の大久町に農家の三男として生まれた。
 父親とは11歳で死別し、小学校を終えると上京。仕送りは望むべくもなく、苦学生としてアルバイトの毎日だった。
 一時、ボクサーを目指したが、思うように勝ち星を挙げられず断念。その後、歌手志望に転向し、東洋音楽学校に入学すると、貧困生活で望郷の念に駆られながらも「故郷に錦を飾るまで帰らない」と、専心。
 日給20銭で浅草帝京座の幕間で歌っていた霧島だったが、その甘くソフトな歌声がコロムビア文芸部長に認められると、状況が一変、突如、スターへの道が開かれる。
 昭和11(1936)年、『思い出の江ノ島』でデビューを果たし、翌年の『赤城しぐれ』や、翌々年、大スターだったミス・コロムビア(松原操)とデュエットした『旅の夜風』が大ヒット。これが縁で、松原と結婚、〝世紀のロマンス〟と話題になった。
 一方、当時は戦争の真っ只中、霧島は軍歌も歌い、兵役の傍らヒット曲を連発。戦後も第一線で活躍し続け、NHK紅白歌合戦に5回出場、同45(1970)年には紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章するなど、「国民的歌手」として不動の地位を築く。
 霧島は、成功を収めてからも努力を惜しまなかった。基礎学習のため家庭教師を雇い、国語、英語などの勉強のほか、ピアノや体力づくりのジョギング、歌の練習は連日、深夜に及び、レコーディングした曲は3千を超えた。
 また、故郷への思いも深く、母校、市立久之浜小の校歌作りへの協力を求められると、西條八十、古関裕而らと納得がいくまで作り込み、発表の日は、両氏とコロムビアオーケストラの伴奏を引き連れて、同校で美声を披露する力の入れようだった。
 霧島は、妻との間に4人の子をもうけたが、同59(1984)年、腎(じん)不全で入院した都内の病院で、69歳で逝去した。
 近年、久之浜、菓匠梅月の片寄清次代表ら有志が中心になり、霧島昇記念館建設の機運が高まった。だが、実現には至らず、平成14(2002)年、西條の生誕110周年に際し、大久町、市海竜の里センター敷地内に、霧島の代表曲『誰(たれ)か故郷を思わざる』の詩碑が建てられた。

 

『誰か故郷を…』の詩碑と、記念館建設のために尽力した片寄代表。揮ごうは、霧島の長男、坂本紀男氏=市海竜の里センター。

霧島昇略歴(こぼれ話)

 昭和14(1939)年に発表された『誰か故郷を…』( 作詞・西条八十、作曲・古賀政男)は、当時「難解過ぎてヒットしない」と判断され、慰問用レコードとして全て戦地に送られたという。
 ところが、故郷を離れ戦う兵士らの心情に訴える歌詞とメロディー、霧島の歌声が反響を呼び、内地に逆輸入。国内でも大ヒットを記録し、同名映画も作製・公開された。