-群像- いわきの誉れ「第2代いわき市長 田畑金光」

市の基礎施策次々に 「市民意識の一体化」図る 

田畑金光=中岡町、田畑クリニック

 4年前の4月、肺炎のため99歳で他界した田畑金光。第2代いわき市長として3期12年にわたり、地域の発展に貢献した。
 時代は、日本が高度経済成長から低成長に転換した昭和40~50年代。いわき地域も、基幹産業を石炭から近代工業へと移行する最中、市の基礎となる施策を次々に実行。
 いわき市民憲章、市非核平和都市宣言、いわきおどりの制定、中国・撫順市との友好都市締結、市立美術館、市石炭・化石館の建設、吉野せい賞の設立など、田畑市政の成果は枚挙にいとまがない。
 田畑は1914(大正3)年、奄美大島・龍郷町に生まれた。
 大志を抱き、旧制大阪高校を経て東京大学法学部に進学。卒業後、「欧米植民地主義からのアジアの解放」を標榜(ひょうぼう)する満州国政府に奉職することこそ「男子の本懐」と、渡満、後に軍人として戦地を渡り歩いた。
 終戦を迎えると、大学時代のつてを頼りに46(昭和21)年、いわきを訪れ、大日本炭礦に就職。
 だが、有り余る情熱から労働組合に参加、その推薦を受け翌年、33歳で県議選に初当選。政治の世界に身を置くと、参議院、衆議院議員を各二期務め、当時、すでに斜陽化していた石炭産業の存続を訴えた。
 74(同49)年、市制施行から9年目、支持者に推される形でいわき市長選に出馬、当選。
 好間中核工業団地やいわきニュータウンの整備など、それまでの工業化政策を引き継ぐ一方、市民憲章、いわき踊りの制定などを通して、「市民意識の一体化」を図った。
 また、ひっ迫していく社会の中で「人間的精神の解放も大切」と、芸術・文化の涵(かん)養にも注力。炭鉱の歴史などを紹介する「石炭・化石館」、港町のシンボルとなる「マリンタワー」も建設。
 一方で、青年期に身を投じた“正義の戦争”が、侵略戦争に過ぎなかった“歴史の真実”を知り、後年、強い自責の念に駆られていたという。
 こうした中で、石炭を縁とした撫順市との友好都市締結は、少なからず溜飲(りゅういん)が下がる思いだったに違いない。
 市長退任後も、県日中友好協会会長を務めるなど、両国の友好・交流に尽力。撫順市を訪れた際は必ず、現地の「殉難烈士慰霊碑」に花輪を手向け、過去の過ちを詫(わ)びたという。

 

田畑が市長時代、制定した「市非核平和都市宣言」の記念碑。平成14年4月、除幕式が行われた=小名浜生協病院敷地内

田畑金光略歴(こぼれ話)

 田畑は1998(平成10)年、故郷の龍郷町の名誉町民に選ばれた。
 祝賀の席で、今の自分があるのは「奄美の自然風土、歴史、文化に育(はくぐ)まれた反骨精神、人に対する親切、思いやりのおかげ」と、述べている。
 同12年、長男が運営する田畑クリニック敷地内に建てられた胸像は、同町にも贈られ、同町体育文化センター「りゅうゆう館」前に設置、盛大な除幕式が行われた。