幕政トップで舵取り 新政府軍と抗戦、逃避も
磐城平藩5代藩主、安藤信正は、1819(文政2)年、安藤信由の嫡男(ちゃくなん)に生まれ、1847(弘化4)年、信由の死で藩主を継いだ。
江戸幕府の寺社奉行、若年寄などを経て、1860(安政7)年1月、老中に昇進し外国事務を担当。今で言う外務大臣のような役職だった。
時代は開国、攘夷(じょうい)論が渦巻く中、同年3月、大老、井伊直弼が攘夷派に暗殺される大事件「桜田門外の変」が勃発(ぼっぱつ)。
この時、事態の収拾を図った信正は、老中首座、久世広周と共に、事実上の幕政トップとして幕末日本の舵(かじ)取りを担うことになった。
信正は、ロシア艦隊の対馬占領事件など、数々の難局を処理しながら、政策として、長州藩士、長井雅楽が唱えた「航海遠略策」を採用。
これは、渦中にあった幕府、朝廷が手を結び、開国、積極的に外に打って出ようという策だった。その手始めに、孝明天皇の妹、和宮と、第14代将軍、徳川家茂との結婚を実現させたが、1862(文久2)年、江戸城坂下門に登城中、水戸浪士の襲撃を受け、負傷(坂下門外の変)。
この事件を発端に、老中を罷免、蟄居(ちっきょ)を命ぜられる。
平藩は長男、信民が継いだが、翌年、夭折(ようせつ)。甥(おい)の信勇が7代藩主に就いたが、若年のため、実権は信正が握った。
1867(慶応3)年、大政奉還で江戸幕府は消滅。翌年、戊辰(ぼしん)戦争が始まると、信正は、奥羽越列藩同盟に加盟、新政府軍に抗戦の構えを取り、平城下は戦場と化した。
だが、戦況は悪く、平城は同年7月、官軍に占拠される。一足早く城から逃げ出した信正は、川前町を抜け、同盟主、仙台藩を目指した。途中、雨宿りをした時に詠んだとされる歌碑が、同町下桶売字荻に建つ。
「志ばしとて 雨宿りせむかひぞなく こころもぬるる山毛欅の下かげ」
また、川内村羽貫立には、幼くして同地で命を落とした信正の娘の墓がある。病死か、過酷な逃避行によるものかは不明だが、傷心の信正は、家老の刀と引き換えに、村人に墓を作らせたという(現在の墓石は、昭和38年に作られた)。
戦争終結後は、表舞台に出ることなく、1871(明治4)年、廃藩置県で磐城平藩の消滅を見届けると、その3カ月後の10月、静かに艱難(かんなん)、53歳の生涯を閉じた。
その遺骨は、東京都麹町、栖岸院の同家墓地に合祀(ごうし)、1989(平成元)年、平字古鍛冶町の良善寺に移された。
安藤信正略歴
1819年11月25日、磐城平藩江戸藩邸で生まれる。29歳から第5代藩主。
寺社奉行などを歴任後、42歳の時、老中に就任。幕末の動乱期に幕政を担い、遣外使節の派遣を決定、欧米列強との条約締結など、対外交渉でも手腕を発揮した。
国内では、朝廷、幕府の一体化(公武合体)を図り、和宮降嫁を実現するが、「坂下門外の変」の後、罷免。