-群像- いわきの誉れ「東洋の製薬王 星一」

-群像- いわきの誉れ「東洋の製薬王 星一」

日本の家庭薬に革命 官吏らの弾圧受け、破産も 

星一の胸像=勿来市民会館

 星一は明治6(1873)年、錦町に生まれた。小学生のころはガキ大将で、いたずらに放たれた矢で右目を失明。以降、義眼を入れていたという。
 平で小学校教諭として勤務した折、西欧思想に触れアメリカへの憧憬(どうけい)を抱くと、コツコツと給料を貯ため、東京商業学校を経て渡米し、コロンビア大学に留学。当時から、用意周到な努力家としての性格が際立っていた。
 アメリカでは、学資や生活費のために、日本の新聞・雑誌を英訳して新聞社どに売り込み、後に、自ら新聞・雑誌社を立ち上げたが、経営は苦しかったという。
 星は、苦学をしながら、他人に頼らず、自分の力で生き抜くことに意義があると考えた。体調管理には万全を期し、市販薬にも精通。この体験こそが、後に「製薬王」として名を馳(は)せる礎になった。
 帰国後、一生を託すに足る商売を探し、イヒチオール(湿布薬)を製造販売。同44(1911) 年、星製薬を設立。ホシ胃腸薬などの家庭薬は、当時の日本としては革命的で、好調な売れ行きをみせた。
 商売が軌道に乗ると、大々的に新聞広告で出資を集め、同時に、全国の特約店を募り、現在のチェーンストア方式を確立。さらに製薬の研究を続け、アヘンを材料にしたモルヒネ、コカイン、抗マラリヤ薬キニーネなどの国産化にも成功した。
 また、アメリカで流行していた「安全第一」をヒントに「親切第一」の標語を立て、福利厚生や教育も充実させ、大正11(1922)年、星製薬商業学校(後の星薬科大学)を設立。
 第一次世界大戦で敗戦した、ドイツ化学界の疲弊を知ると、多額の寄付を行い、学問分野の振興を助け、対日感情の好転にも寄与した。
 破竹の勢いで業績を伸ばしていったが、同14(1925)年、政権闘争に巻き込まれる(アヘン事件)と、6年間に及ぶ係争のうちに経営が悪化、破産に追い込まれる。
 その後も屈することなく再起を図ったものの、その都度、官僚や政治家から弾圧を受けた。当時の星の苦悩は、「人民は弱し、官吏は強し」の言葉に集約されている。
 星は実業家のほか、国会議員としても活躍。昭和26(1951) 年、さらなる夢を追い渡航したロサンゼルスで永眠。77歳の生涯を閉じた。

 

いわき桜ロータリークラブ10周年企画「郷土愛を育むプロジェクト」の一環として、磐城桜が丘高校の生徒らが制作した銘板=JR いわき駅。

星一略歴

 1873年12月25日、錦町に生まれる。
 アメリカでの経験から薬の製造に取り組み、全国の特約店で販売。原料を台湾や南米ペルーから輸入するなど、斬新かつグローバルな経営で事業を拡大した。
 人材教育にも力を注ぎ、同社の教育部門は、後の星薬科大学の母体になった。
 S F 作家、新一の父、野口英世のパトロンとしても知られる。