■月刊りぃ〜ど 2014年3月号掲載
東日本大震災から丸3年
“情報、入らなかった”
渡辺前市長にインタビュー
復旧はおおむね予定通りに
東日本大震災、原発事故から丸3年。復旧・ 復興は緒に就きつつあるが、被災者、避難者らを含む市民の本格的な「生活再建」は、まだまだ遠い。
未曾有の大災害が発生した3年前、いわき市長の任にあった渡辺敬夫氏(68)は、本誌とのインタビュー(1月末)の中で、「当時、まったく情報が入らなかったが、できる限りのことはやった。ひと息つけたのは、あの年の秋、10月ごろだった。しかし、ヨウ素剤の問題には悔いがある」などと振り返った。
渡辺氏はさらに、「復旧はおおむね予定通りになりつつあると思う。今後は、復興のため、一市民として市、県の発展に努めたい」と語った。
「目うつろだった菅首相」
ヨウ素剤問題では悔い 日産のC・ゴーン氏に感謝
4年間の要職、お疲れさまでした。振り返ってみていかがでしたか
渡辺 私が提示していた公約についてはほば実現できたと思っている。例えば、「人づくり」「市立総合磐城共立病院の建設問題」など懇談会を設置して方向付けをした。私の政治信条は「ぶれない」「スピード」であり、この公約を踏まえ、やってきたし、市が抱えていた課題にしていたものについては、ほば遂行できたと思っている。
認識不足の職員処分
任期の後半に発生した大震災、そして原発事故のみダブル惨事をに対しては
渡辺 「1,000年に1度の災害」、前例がない事故だったので、惨事体制をとらなければと考え、全職員に招集をかけて対策に踏み切った。すぐに市の消防本部に災害対策本部を設置したが、情報が混乱していて2、3日の体制機能の遅れはあった。とにかく情報が錯綜(さくそう)し、それで著しく混乱したことは確かだ。
市職員全体の動きはどうでしたか
渡辺 なにしろ大災害だし、高齢者や独り暮らしのお年寄りなどへの対応もあり、市長名で全員に非常招集をかけ、惨事体制を敷いた。こんな時だったから。しかし、残念ながら一部には、大惨事を理解、認識できないような職員もいたようだ。後日、そうした職員は文書で懲戒に踏み切った。内容は減給、戒告、訓告などだった。5、60人は処分したとの報告を受けた。
ご本人は当初、どのような動きでしたか
渡辺 対策本部に入り、3月11日から10日間は、詰めつばなしで自宅に帰ることもなかった。その後、夜間は2人の副市長と交代で行ったただ、先ほども言ったように、発生後しばらくは、震災の件も、原発についても情報はほとんど入らず、だった。国も県もさつばり適切な情報をよこさなかった。
対応が遅れた、と指摘された原因はその辺にもあったようですね
渡辺 例えば、大津波によるガレキの問題だが、国や県に連絡しても埒(らち)があかない。さらには、復旧のための予算措置が1年遅れになった。我々(われわれ)が用地を確保して津波被害者らのための公営住宅建設をしょうとしても、「まかりならん」だった。前線の事情が理解できないにもかかわらず、「認めない」のが上部組織の意見という状況だった。常磐・関船町の公営住宅は、場所が市の土地だし、震災前に決まっていたので早くなっただけ。震災後、私に対するいろいろな中傷、批判、ご指摘があったが、出来る限りの手は打ったと思っている。
船舶での避難計画も
“安全神話”をがもろくも崩れての原発事故。誰もが憂いていますが
渡辺 原発については私自身、これまで多少なりの知識は持っていた。だが、あの事故、放射線に対しては正直、さつばり動きがわからず、苦労した。これもほとんど情報が入らなかったから。そんな中だったが、事故の発生直後、職員に避難計画を作成してもらい、3月12日の夜、30キロ圏内の久之浜・大久の住民約5,800人には、常磐に避難してもらった。
そのほか、他地域の避難計画も作ったようですが
渡辺 県サイドと打ち合わせをして、四倉全域と平の鉄北地区合わせて48,000人を対象としたプランも作り、船舶での避難、脱出も考えていた。
相双地区からも多くが避難、一連の対応、要望などのため、首相官邸へも“直談判”で出かけましたね
渡辺 官邸へ出向き、菅直人首相にも直接会い、現状を訴えもしました。だが、その時の首相の目はうつろだったんだ。そんな状態だったので、我々の話がしっかり耳に入ったかどうかは大いに疑問だったね。
放射性物質に関し、40歳未満の市民に「ヨウ素剤」を配布しましたが…
渡辺 原発事故の4日後の3月15日に、情報がない中で私が判断、決定して17日から対象者への配布を始めた。乳幼児には粉にして飲ませなければと思い、一般の家庭で使っているしよう油の容器を集めたりも利用してと思い、した。そして、配布は各区長さんに依頼した。ただ、この件は、国、県からの指導や情報もまるでない中でのことだった。今考えれば、飲んでもらうべきだっ悔いは残っている。
発生後のロスが響く
震災後、丸3年目を迎えました。今の現況、どうみますか
渡辺 いろいろあったが、復旧事業に関してはおおむね予定通り出来つつあると思っている。岩手や宮城など他県からみれば、福島、いわき地域は進んでいる。復興については、市民の皆さんの「本格的な生活再建」という点ではまだまだだろうが、平成26、27年度中には…。原発関連も含めてだが、これらについては発生後、およそ40日も上部からのこれといった情報がなかったこと。このロスが今も響いている。日数があまりにも長かった。
在任中の出来事で印象に残ったことは?
渡辺 ダブルの惨事で、市内の大手企業などが続々といわきからの移転を計画しているといった情報が流れた。そんな折、日産のカルロス・ゴーンさんがいち早く「ここ、いわきで復興を目指す!」と、新聞紙上で語っていたのを読み、勇気づけられた。私自身、あの言葉で「必ず市の復興を」ということに自信、確信を持った。あの言葉はありがたかった、勇気づけられたね。
ご自身の今後について
渡辺 う〜ん、今は暇なので農業をしたり、たまには仲間たちとゴルフをしたり。いずれにしても、これからは一市民、一県人として復興のために持っている力を尽くしたいと考えている。
▼渡辺敬夫氏プロフィル
1945年12月25日、平生まれ。日大法学部卒。市議(2期)、県議(5期)、県議会議長。平成21年秋、第7 代目のいわき市長に就任(1期)
インタビューを終えて
「あの日は家にいたのに、『市長が逃げた』と、変な噂(うわさ)を立てられてしまって…」。一見、み強面(こわもて)をの渡辺さん、目を細め、思い切り相好を崩しながらの笑顔でク真相をを語る。渡辺さんとの初対面時は、市議と新聞記者という肩書のころ。もう、30年近くも前だ。この人、裏表がない。誤解される点もなくはないものの、気は優しく、正直。市長在任中は、震災対応に対し、批判の声も上がり、また、相双地区民といわき市民の軋轢(あつれき)問題など難問も続出。だが、自らを信じ、黙々と職務をこなしてきた。今は在野の人をとなったが、これまでの経験を生かし、まだまだ市、市民のため努めてほしい。