-群像- いわきの誉れ「交通の父・政治家 野崎満蔵」

バスで地域発展に貢献 葬儀には2千人以上が参列 

野崎満蔵= 平、小太郎町公園

 野崎満蔵は、常磐交通の初代社長を務めるなど、いわきの公共交通への功績が認められ、藍綬褒章を受章。政治家としても、町、市、県議、玉川村長、いわき市市制実施後初の市会議長を歴任、紺綬褒章を受けた。
 満蔵の伝記を執筆した荒川禎三は、『風雪八十年』の中で、「いわきの功労者と言えば、古くは白井遠平、近くは野崎満蔵だ。しかし、こと平と限定したら、野崎の功績は白井をはるかに上まわる」と、称賛している。
 満蔵は1881(明治14)年、旧玉川村(現・小名浜住吉)に生まれた。
 幼少から成績優秀で、政治家・河野広中(磐州)の話を好んで聞いた。軍人を志したが、寝小便が治らず、全寮制学校への進学を断念したとの〝逸話〟も残る。
 18歳の時、醤油(しょうゆ)醸造業の夢を抱き、平町の貸金業、浅井家に養子入り。苦節9年、資産を13倍に増やしたが、満足な財産分与が得られず衝突。都合3千円で離縁になり、夢破れた満蔵は一時、放蕩(ほうとう)生活に身を落とした。
 その後、知人弁護士の世話で借金や財産を整理、〝心機一転〟と上京したが、程なく帰郷、芸妓(げいこ)屋を営んだ。
 一方、政界では次第に頭角を現し、水力発電所建設をめぐる「大滝騒動」や、刺客に襲われるなど、幾度となく困難に見舞われながらも、新川改修ほか多くの功績を残した。
 もともと、「社会的な事業を興したい」と考えていた満蔵は、1927(昭和2)年、弟・喜八郎とバス会社、野崎自動車交通を設立。43(同18)年、国家総動員法の命令を受け、同社を含む十四業者が合併、社名を「常磐交通」とした。
 満蔵は、持ち前の粘りと交渉力で同合併を成し遂げると、経営が苦しくても、「地元に利益を還元し、地域発展に貢献したい」との一心で、同社を全国有数のバス会社にまで成長させた。
 「恩を忘れず、人に迷惑をかけず」を生活信条に、波乱の人生を歩んだ満蔵は、62( 同37) 年3月12日、心臓喘息(ぜんそく)のため80歳で亡くなった。
 葬儀には、関係団体の長のほか、2千人を超す一般参列者が訪れたという。
 3年後には、初代いわき市長・大和田弥一を会長に「野崎満蔵翁遺顕彰会」が発足。数年にわたり、満蔵の命日、遺徳を偲(しの)ぶ記念行事が行われるなど、その人柄は、永く、多くの人に愛された。

 

1954(昭和29)年ごろの平駅(現・JRいわき駅)前。=宮本達雄さん提供

野崎満蔵略歴(こぼれ話)

 満蔵は骨董(こっとう)や植林、謡曲にも熱中した。刀剣や仏画など、骨董の鑑識眼はプロの域に達し、白井遠平が生前収集した逸品の多くを譲り受けた。
 植林は、祖父の教えをきっかけに、川前村桶売の山を中心に行い、後年、「自分で植林した杉の成長に、無限の愛着を感じる」と、述懐している。
 謡曲でも師範の免許を持つなど、趣味においても多才だった。