〝悲願〟鮫川堰を復活 企業誘致などでも手腕発揮
古川傳一は1887(明治20)年、植田村(現・植田町)に生まれた。
父親は、後に鮫川村長(現・同) などを務めた古川徳三郎。家系は日本酒などの醸造業を営み、傳一も大学を卒業後しばらくは、家業に従事した。その後、鮫川村会議員を経て1923(大正12)年、福島県議会議員に当選。
県議として鮫川堰(ぜき)の復活を訴え、33(昭和8)年、植田町長に就任してからは、木造で洪水のたび流されていた鮫川橋をコンクリート橋に架け替え、同町に磐城農業高校を誘致するなど、市南部の発展に寄与した。
55(同30)年、町村合併で勿来市が誕生した際は、初代市長に選出。茨城県との常磐共同火力勿来発電所の誘致合戦では、市費負担での敷地無償提供を条件に、交渉を有利に進めるなど、卓越した政治手腕を発揮。
ほかにも、治水、工業用途を目的とした「高柴ダム」、老人福祉施設「千寿荘」の建設などにも貢献。67(同42)年、79歳で逝去。
県議時代、傳一が何よりも心血を注いだのが鮫川堰の復活だった。
市南部は、広大な耕作地を有しながらも灌漑(かんがい)用水に恵まれず、遠野町の鮫川を取水口に、山田、渡辺、泉町から小名浜までを潤す同堰は、住民らにとってはまさに“悲願”だった。
古くは嘉永年間(1848~55年)、渡辺村上釜戸の鈴木定八が私費を投じて測量を行い、40年の長きに渡り、関係町村などに整備を訴えたが、資金のめどが立たず実現を見なかった。
ようやく、明治政府が富国強兵、殖産興業を理由に融資の道を開き、事業に着手したのは、定八が79歳で亡くなる前年、1898(明治31)年のこと。
同堰はその後、4年の歳月をかけ完成したが、台風など災害のたびに寸断、修繕が繰り返される中、通水されずに放棄されるようになり、水利組合として融資を受けた農民らには借金だけが残った。
こうした状況下、県議に当選した傳一は、予算確保、水利権復活などに尽力。1939(昭和14)年、工事が完了すると、竣工(しゅんこう)式で式辞を述べながら、感極まって絶句したという。
幾多の困難を経て完成した同堰は、農業用水のほか、日本水素工業(日本化成を経て三菱ケミカルに吸収合併)をはじめとした工業用水、飲料水としても利用され、現在もなお、地域の生活、発展を支えている。
古川傳一略歴(こぼれ話)
鮫川堰の工事に伴い、灌漑地の農民らで組織する水利組合が負った借金は莫(ばく)大で、当時の平町長をはじめ、いわき地方33町村長全員が連名、融資元の日本勧業銀行に陳情書を送るなど、多くの人々が救済のための活動を展開した。
傳一は、製薬王・星一を動かして県の慈恵基金の融資を受け、その資金を農工銀行に預金、得られた利息を返済に充てさせたという。