公共投資で基礎築く 気さくな人柄、対話も重視
1964四(昭和39)年から4期12年にわたり、県知事として福島発展の基礎を築いた木村守江。
高度経済成長期のただ中、県内の道路網をはじめインフラ整備を強力に推進。
「道路知事」の異名を取り、新産業都市指定に伴ういわき市合併、小名浜港の開発、原発誘致など、公共投資に力を入れる一方、「人づくり」を県政のキャッチフレーズに、県民との対話も重視した。
木村の一生は文字通り、「波乱万丈」だった。
1900(明治33)年、現在の四倉町に生まれ、慶応義塾大学医学部を卒業後、同町で伯父が開業した木村医院の経営を任される。
37歳の時、召集され、以降、軍医として大陸戦線に従軍、いったんは帰郷、県会議員となるが、2年後、再び戦場に戻り、インドネシア・ソロンで終戦を迎えた。
46歳、6年ぶりに帰国した木村は、県会議員に復職、県教育委員会委員長、参議院、衆議院議員を経て、当時の佐藤善一郎知事の死去に伴う後任として出馬、当選。
佐藤県政から、新産業都市指定、原発誘致などの施策を引き継いだが、双葉郡の発展を標榜(ひょうぼう)した原発誘致は、自ら、先進地であるアメリカ・ボストンのピリグレム原発を視察、「安全性が確保されている」と、これを実現させた。
その一方、車社会の到来を予見し、自らの運転で県内全域を視察、道路整備を推進。
「道は、金持ちや貧乏にかかわらず、共通で平等、だから道には価値がある」と語り、視察先では、県民らに気さくに声をかけるなど、気取りのない人柄も見せた。
夜8時に就寝、朝は4時に起きる生活で、議会では原稿を見ずに答弁を行った。
全身全霊で県政に臨んだ背景には、戦時中、眼前で亡くなった多くの仲間の無念と、残された者としての強烈な使命感があったに違いない。
そんな木村だが、76(昭和51)年、収賄罪容疑で逮捕され、辞任。有罪判決を受けたが、一方で、「部下たちの罪を一人で被った」ともいわれている。
事件について詳細を語らぬまま、後年はゴルフや登山を楽しみ、96(平成8)年、96年の生涯を閉じた。
木村守江略歴(こぼれ話)
いわき(常磐)と郡山が合同で新産業都市の指定を目指した時、両地区の距離や移動時間、地形などが問題になった。
審査官を務める国会議員が視察に訪れた際、木村が音頭を取り、磐越東線の列車の窓をふさぎ、外を見えなくして「いわき─郡山間に山はない」と、信じさせたという。ほかにも、会話を盛り上げ、時間を短く感じさせたりと、苦肉の策をも展開した。(彦)