-群像- いわきの誉れ「泉藩主 本多忠籌」

質素倹約で財政再建 老中として幕政にも参画 

赤玉本多=泉町、泉西公園

 本多忠籌は1739(元文4)年、江戸に生まれた。
 父忠如(ただゆき)は、遠江国(静岡県)相良藩主を務めていたが、忠籌が八歳の時、泉藩への国替えを命ぜられる。これにかかる費用は大きく、借入金などで藩財政が困窮する折、持病悪化のため隠居を余儀なくされてしまう。
 代わって、54(宝暦4)年、16歳で同藩主に就いた忠籌は、借金返済のため、自ら木綿の衣服を着るなど、質素倹約を奨励。
 1万石の手当てが得られる「大坂加番」(1年交代の城警備の役)に3度も志願、財政の助けにしたほか、所領1万5千石の3分の1、5千石を返済に充て、残り1万石で藩運営を行う財政改革も断行した。
 こうした甲斐(かい)あって、83(天明3)年には1万両を貯蓄するまでに至った。
 全国的な冷害に見舞われた「天明の飢饉(ききん)」では、幕府や、多くの藩で対応が後手に回り、被害が拡大する中、飢えに苦しむ領民に食料や種もみなどを分け与え、餓死者が出るのを防いだ。
 また、忠籌は、働き手となる人口増加を図り、養育費を支給、越後(現新潟県)からの移住奨励のほか、以後の凶作に備え、領内に「郷倉(ごうくら)」を作り、穀物を備蓄する一方、新道・儒教・仏教の教えを融合させた「心学」を広めるなど、次々と施策を実行。
 87(天明7)年、白河藩主だった松平定信が幕府の老中になると同時に、若年寄、後に老中格となり、定信の右腕として「寛政の改革」に加わった。
 12年間、幕政にかかわった後、60歳で辞任。翌年、藩主を子、忠誠(ただしげ)に譲ると、荷路夫に自分の生祠(せいし=生きている人を神としてまつるやしろ)を建て、木像を安置。その8年後の1812(文化9)年、病気のため74歳で亡くなった。
 忠籌の木像は明治時代、泉館跡に創建された泉神社に移された。
 泉町4丁目、泉陣屋跡には、老中忠籌が、登城の行列で槍(やり)の穂先に飾った赤玉(赤玉本多)のモニュメントが建てられ、同駅前大通りで開かれる「泉ふるさと祭り」では、この大名行列を再現した「泉赤玉やっこ行列」が、同町名物の1つになっている。

 

本多忠籌の木像が安置された泉神社。左手前が忠籌の墓誌といわれる。

本多忠籌略歴(こぼれ話)

 松平定信が推し進めた「寛政の改革」は、質素倹約を重んじ、風紀を粛清。朱子学以外の学問を禁じるなど、思想的な統制も行われた。
 「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」の歌は、わいろなどが横行した前老中・田沼意次の時代を懐かしみ詠まれたもの。
 清廉潔白が過ぎた同改革は、庶民の反発を買い、定信はわずか6年で失脚した。