-群像- いわきの誉れ「篤志家 小田吉次」

炭鉱経営で立身出世 豪快な気性、社会にも奉仕 

小田吉次の胸像=好間町

 小田吉次は明治14(1881)年、京野新蔵の5男として、秋田県秋田市で生まれた。
 翌年、伯父・小田政太郎の養子になり小田姓を名乗ったが、家は貧しく、10代のころから養父とともに鉱山労働に従事した。
 小田は、豪快な気性の持ち主で、鉱山を次々に渡り歩くうち、仲間らと金山の採掘を開始。資金難からこれを放棄すると、さらに新天地を求め朝鮮行きを計画した。その途中、立ち寄ったいわきの内郷館で、同館開設者の筒井又兵衛から、茨城県「手綱炭礦」の職を世話された。
 小田はここで測量技手として働き始め、さらに経験を積むと、27歳で好間村(現好間町)に「中根炭礦」を開拓。大正3(1914)年、33歳で「元山抗」を買い取り、「小田炭礦」として経営に乗り出した。
 当時、常磐線の開通と、これに伴う中央からの資本流入、日露戦争の特需などの影響で、市内の石炭産業は隆盛を極めていた。
 小田はさらに5年後、同村の「隅田川炭礦」も手中に収めると、関東大震災後の特需を追い風に業績を伸ばし、全国にもその名を轟かせた。
 立身出世した後も、貧困の中で育ったせいか、儲けは惜しげもなく従業員らに分け与え、社会にも奉仕。第二次世界大戦では、陸・海両軍に飛行機を1機ずつ寄付して話題になった。
 また、十分な教育を受けられなかったことから、その振興にも意を注ぎ、昭和11(1936)年、磐城高校女学校(現磐城桜が丘高校)に講堂、同27(52)年、磐城高校に図書館を寄贈。村の小学校にも多くの教育資材を提供した。
 同30(55)年の閉山に当たっては、「炭鉱は俺一代の仕事だ」と、潔さを見せ、社宅などのほか、全従業員のためにひそかに続けていた貯金も分配したという。その2年後、持病のぜんそくが高じ、77歳で他界。死してなお、遺言で、好間中学校に体育館を寄贈した。遺族らはその後、ヤマニ書房を経営、いわきの教育文化を下支えしている。
「ヤマニ」の名は、古河炭礦の炭礦印「ヤマイチ」にちなんで付けられたという。 (敬称略)

同女学校の「小田講堂」の落成記念として発行された絵はがき=昭和11年4月

小田吉次略歴(こぼれ話)

 同女学校に寄贈された「小田講堂」は、洋風の木造平屋建て。レリーフやシャンデリアを有し、当時、東北でも類のない大きさだったが、平成3(1991)年、残留の声の中、解体。
 これを教訓に、同講堂の2年後に建てられた「桜丘会館」は、同窓会らが中心となり保存活動を展開。同26(2014)年、国の登録有形文化財に指定された。