-群像- いわきの誉れ「元『昌平黌』理事長 田久 孝翁」

教育と福祉に“猛進” 山岡荘八の薫陶受ける 

田久孝翁像、左は田久の筆による「大義成大和」の石碑=東日本国際大学

 田久孝翁は、「東日本国際大学」「いわき短期大学」などの学校法人、「太陽の里いわき」などを運営する社会福祉法人と、一代で2つの「昌平黌」を築いた傑物。
 社会に対する深い洞察と、高邁な理想、並外れた行動力で、計画を次々と実現。現在につながる多くの礎を作ったが、その半生は苦労や挫折の連続でもあった。
 1921(大正10)年、木材業の家に生まれ、10代で昭和恐慌を経験、炭焼きの仕事に就きながら学校に通った。
成績は優秀で、40(昭和15)年、青少年学徒に対する勅諭の発布式では、学校代表として参列。
 高揚感の中“滅私奉公”を誓った田久だったが、翌年の徴兵検査は、弱視のため不合格、「挫折感をいやというほど味わった」。
 その後、満州開学義勇軍を志願。青年学校の助手、満州鉄道の警乗などを勤めたが、体調を崩し入院、一時帰国したまま終戦を迎えた。
 戦後は、製粉、木材、建設と、手がけた事業が次々と失敗。郷里を離れ、東京の工事現場で出稼ぎをするうち、持ち前の胆力で、協力会社をまとめる幹事長にまで昇進した。
 労務管理の都合、「田久建設」として独立すると、数年で工事高が10億に迫るまでに成長。そのさ中、同短大建設に携わることになる。
 当時、いわきは新産業都市の指定を目指し、大学の整備も重視していた。
 ところが、66(同41)年の開学に当たり、工事費の不渡りが発生。筆頭債権者として理事長を引き受けることで窮地を救った。
 田久は承諾前、作家・山岡荘八に相談。「昌平黌」建学の精神などに薫陶を受け、大学運営を決意したという。
 以後、幼児教育課や附属幼稚園も設け、孤児のための「いわき育英舎」、高齢者施設など、福祉にも注力。
 政治にも足場を移し、県議会、市議会議員を各1期余り務めた後、95(平成7)年、同大学を設立。「平和経済学」を唱え、その5年後には、青少年問題に対応する中高一貫の同大附属中学・高校を設置した。
 田久は、地域に多くの功績を残し、2008(同20)年、87歳で“波乱”の生涯に幕を下ろした。 (敬称略)

 

田久と山岡の建学の精神を継ぎ、地域の人材育成に取り組む「東日本国際大学」「いわき短期大学」

田久孝翁略歴(こぼれ話)

 児童養護施設「いわき育英舎」の建設に力を注いだのは、田久の長男、勝敏だった。
「身寄りのない子どもたちのため」設置に尽力したが、厚生省からの事業認可の内示が届いた日、急性心不全で急逝。
 志半ばで他界した長男の意をくみ、田久は「教育と福祉」に打ち込むと同時に、遺志を継ぐ形で1983(昭和58)年、県議選に出馬、当選を果たした。