藩政追われ名句残す 松尾芭蕉らと親交深める
市内の風景を詠んだ歌とともに、各所に句碑も残されている内藤露沾(義英)は、明暦元(1655)年、風虎(義概)の次男として江戸桜田邸に生まれた。
父、風虎は、若い時から和歌や俳句に傾倒、松尾芭蕉の師、北村李吟や、西山宗因らとの交友も厚かった。後年、芭蕉らと親交を深めた露沾の素養も、こうした環境下で培われていった。
風虎・露沾親子は、自ら歌を詠む一方、門人らの指導や、同時代の俳人らの後援にも熱心で、江戸俳句を陸奥、出羽国(東北地方)に広めるなど、俳句文化の涵養にも多大な影響を及ぼした。
だが、風虎の祖父・政長の代から続く磐城平藩主としては、3代目、風虎の施政は、後の「小姓騒動」を招く。
風虎は、俳句に打ち込むあまり、藩政を小姓の松賀族之助に委譲。これが原因で政治が混乱すると、家督を継ぐはずの露沾とも不仲になり、病弱を理由に廃嫡。代わって、3男、義孝を後継に据えた。
藩政を追われた露沾は、江戸麻布で隠居。政治とは距離を置き、仲間の俳人らと風雅な生活を送ったが、芭蕉が大阪で往生した翌元禄8(95)年、41歳で江戸を後にし、平の高月邸に移った。
その後は交友関係も一変、句会や能楽などを楽しむ一方、寺社に半鐘などの寄進も行ったという。
享保3(1718)年、義孝の子、義稠が早世すると、幼くして跡を継いだ長男、政樹の後見人として一時、藩の舵取りを行い、「騒動」の沈静化にも努めたが、政樹が成長すると実権を譲り引退、再び俳句活動を楽しんだ。
大名家に生まれながら、権力に執着することなく、生涯を俳句に捧げ、多くの名句を残した露沾は、後年の38年間をいわきで過ごし、同18(33)年、79歳の時、同邸で息を引き取った。
露沾亡き後も、政樹の藩政は続いたが、長引く騒動で財政は困窮。天災も重なり、それまで松賀家の悪政に苦しんでいた領民らの不満が爆発。元文3(38)年、大規模な「元文百姓一揆」が起こる。
政樹はこの一揆発生などの罰として、延享4(47)年、延岡藩に転封。8代、125年に及んだ内藤家の平藩政に終止符が打たれた。 (敬称略)
○○略歴(こぼれ話)
風虎の時代から、内藤家と松賀家の間では長らく、権力をめぐる「小姓騒動」が続いていた。
露沾の子、政樹が八代藩主に就くと、松賀家からまんじゅうが献上され、これを怪しんだ露沾が犬に食べさせたところ、毒が回り死んでしまった。露沾は同家に対し、藩主の毒殺を謀ったとして、断絶などの重い処分を下し、同騒動は収束した。