-群像- いわきの誉れ「作家 吉野せい」

古希過ぎ、文筆で偉業 開墾、子育ての生涯記す 

好間町の自宅前での吉野せい(76歳)

 市が、文学・文化の育成と向上を図る目的で、毎年実施している「吉野せい賞」は、今年で41回を数える。
 同文学賞のきっかけになった吉野せいは、明治32(1899)年、小名浜下町の網元、若松家に生まれた。
 高等小学校を卒業後、検定で教員資格を取得。勿来、小名浜で教べんを執ったが、「もの書き」になる夢のため、2年ほどで退職。
 その後、詩人・山村暮鳥、考古学者、社会主義者でもあった8代義定らのもとを訪れては文学に打ち込んだ。特に、8代の書架には思想関係の本が豊富で、これらの本を通し、思想的な方向性が固まっていったと考えられる。
 8代の家には、好間町の菊竹山で開墾生活をはじめたばかりの吉野義也(三野混沌)も出入りしており、8代の仲人で2人は結婚。
 開墾した畑でナシを育て、炭鉱街に売りに行く傍ら、自給自足の生活を送った。
 せいは、夫の主張もあり文筆活動を休止。その後、夫が農地解放運動に専心したことで、畑仕事と6人の子育てに追われる毎日。
 こうして、40数年間、筆を執ることなく過ごしたが、昭和45(1970)年、夫が逝去。2年後、その詩碑が建てられると、除幕式に列席した草野心平からの激励もあり、古希(70歳)を過ぎて文筆を再開した。
 同49(74)年、『洟をたらした神』を出版。この時、せいは現代文学はほとんど読まず、古典の文体で執筆したという。
 翌年、同作品が大宅壮一ノンフィクション賞、田村俊子賞を受賞。この偉業に、市民はもちろん、文壇も大きな衝撃を受けた。
 同著のほか、『暮鳥と混沌』『道』などの著書を残したせいは、同52(77)年11月、「あぁ、こわい(疲れる)」の言葉を残し、入院先の病院で息を引き取った。
 大きな賞を受賞してもおごらず、「私は単なる百姓バッパ」と、自らを称した。
 せいは、著書『道』の中で、その生涯についてこう記している。
 「人間の生きる自然路を迷わずにためらわず歩きつづけられたというこの生涯を、誇りもしないが哀れとも思わない」(『私は百姓女』から)

 (敬称略)

 

有志らによって、菊竹山の自宅前に建立された三野混沌の詩碑。揮ごうは草野心平

○○略歴(こぼれ話)

 「吉野せい賞」は、昭和52年に公演された、手織座『洟をたらした神』の興行収益から、市に50万円が寄付されたことを機に、当時の田畑金光市長が、その活用を教育委員会に審議させ制定。
 同時に田畑市長は、市全体の芸術文化振興に資するため、5年間で1億円を積み立て、その益金を文化振興基金に充当させる条例も制定した。