自らの才、磨き続ける 草を枕に両親ら探す旅も
山岡鉄舟(剣豪、政治家、思想家)、正岡子規(俳人)、さらには清水次郎長(侠客)……。激動の明治時代、過酷な中で生き抜き、今に名を馳せた面々と交流を続けた、歌人・天田愚庵。自らの才を磨き続けた傑物だった。
磐城平藩主・安藤対馬守の家臣、甘田平太夫の五男として江戸末期の嘉永7年7月20日(1854年8月13日)に生まれた愚庵、幼名は久五郎と呼ばれた。
後に称した愚庵の名は出家後の法名であり、臨済宗の僧侶・滴水禅師からの「偈文」(仏・菩薩を称えた語句)に由来する。
愚庵15歳の時、一大転機となる戊辰戦争が勃発。藩士の一人として参陣したが、平城の陥落によって仙台へ逃避。戦後、謹慎を解かれ自宅に戻ったところ、父母、妹たちは行方不明。兄とともに無事を祈りながら、草を枕に両親らを探す旅に出る。
そんな中、新しい時代の到来を察知した愚庵は上京し、神学校へ入校。キリスト教や和歌を学ぶ傍ら、将来の師となる山岡と知遇を得る。19歳の時だった。
明治11(1878)年、山岡の紹介で静岡県・次郎長の元へ行き、富士山裾野の開拓などで生活を共にしつつ、養子となって「山本五郎」を名乗った。
この間、肉親探しのため、旅回りの写真師となって北海道から九州まで回ったが、手掛かりになるものは得られなかった。
養子となった後、愚庵は後に次郎長物の“種本”となる『東海遊侠伝』を執筆して世に送る。
だが、開拓事業が不振を極めたことからこの地を辞し、山岡の紹介で京都の臨済宗系の林丘寺へ。同戦争後、巡り合うことが叶わなかった父母たちの菩提を弔うため、同禅師の下で参禅を続け、同20(1887)年に得度、禅僧となった。
翌年に山岡が亡くなると、京都・相国寺で盛大に追善供養を行うとともに、同・清水に庵を結び、居を移す。その後、病床に伏すようになり、同37(1904)年1月17日に死去。享年51歳だった。
漢詩、和歌、写真師、さらには新聞記者として学び、子規らにも影響を与えた愚庵。その庵は今、平の松ケ岡公園北側の一角に建つ。昭和41(1966)年に京都から移築、復元されたものだ。
(敬称略)
○○略歴(こぼれ話)
肉親を探して全国を飛び歩いたその姿は痛ましく胸を打つ。
市立総合図書館には彼の関連図書が並び、同公園の庵の前には地元の彫刻家、小滝勝平さん制作による像、歌碑も建つ。
「せこやこいし や恋しと おもふより 夢に入りしか あわれ我妹子」
歌碑には妹をんだ歌が刻まれており、時代にされつつも、走り続けた愚庵の“息吹”が感じられる。